栽培イネは世界人口の2/3をカバーするアジアを中心として,いまや世界中に拡散しています.栽培イネは学名Oryza sativa L. ,そして祖先種となる野生イネはO. rufipogonです.この種は北は長江流域(以前は黄河流域近くまで分布していたようです)のアジアから南はオーストラリア,西はインドまで拡がっています.栽培イネの起源地にはいろいろと仮説がありますが確かなことは明らかになっていません.

これまで武田和義先生,島本義也先生,佐藤雅志先生,佐藤洋一郎先生などの科研班において,さらに総合地球環境学研究所での佐藤洋一郎プロジェクトにおいて,イネの多様性調査のために各地に赴いて遺伝資源の調査をしてきました.栽培方法,イネと関わる文化,在来種,野生種,近縁種の調査などです.その中から,いまでは栽培イネに遺伝子導入して、野生イネにしか見られない遺伝子の育種的利用をすすめています.

このホームページでは,その調査の内容を公開しながら,育種学について感心のある方への情報提供を行うとともに,研究を志すヒトに少しでも情報開示ができるようにしたいと思います.また,他のサイトではその他の作物育種に関する研究の紹介します.

 

 

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「イネの原産地と日本への伝播」

1.野生イネの栽培

 世界の主要穀物は単子葉植物のイネ、コムギ、トウモロコシから成り立っており、アジアの主食はイネである。これは野生種としてのイネが卓越する環境からヒトが栽培を始めたことによる。肥沃な三日月地帯では冬に地中海からもたらされる雨がコムギをはぐくみ、アジアでは夏の季節風により大洋から湿った風が大陸に雨を降らすモンスーンがイネをはぐくんできた。栽培化はおよそ一万年前から始められたと考えられている。氷河期から温暖化が始まり人口が増加したものの、小氷河期による食料危機に対応するために各地域に生育していた野生種の栽培化が始められた。

 一方、野生種からの栽培化にはかなりの時間が必要であった。数千年に及ぶ栽培行為により、栽培種が成立したともいわれる。野生種は脱粒性を示し、穂から小穂(籾)が落ちることで次代の種子が生き残るための準備を進める。種子の利用は小穂が脱落しない非脱粒性を導き、収穫しやすいイネの突然変異を固定させた(図1)。栽培イネは穂から玄米を含む小穂をちぎり取ることで収穫される。野生種は落ち葉と同じように離層が生じることで小穂が自然と脱落することで地面に落ちて,次のシーズンに発芽するまで休眠することになる。現在、栽培種に生じた変異は,第四染色体のSH4(=SHA)に生じたものとして知られており、栽培イネの全てが同一の塩基置換による非脱粒性変異を有している(Liら2006,Linら2007)。

 栽培化に必要な形質は非脱粒性のみではない。収穫量が多くなるためには野生種よりも種子が大きくなること、1つの穂における粒数が多くなっている。種子の大きさも重要な形質であり、数千年の間に徐々に大きくなってきたようだ。ではどこでこのような栽培化が行われたのだろう。栽培イネには2つのグループの存在が知られている。1つは日本型であり、他方はインド型と呼ばれる。日本型はさらに細分化され、温帯地方の温帯日本型、熱帯島嶼(インドネシア、およびフィリピンなど)の熱帯日本型に分けられる。

 これまでの主要なイネの起源には諸説あった。代表的なものはアッサムー雲南説であり、それに対立する形で提唱された長江起源説である。前者はコムギの栽培起源地とされた肥沃な三日月地帯に対置された東亜半月弧において栽培されたことが想定された。栽培作物の起源地を特定するためにはバビロフの地理的微分法に基づき、優性遺伝子で構成される多様性が高い地方が候補地としてあげられる。これは多様な野生種から栽培種を人為的に選抜せしめたとする過程が最も妥当な栽培化であるからだ。しかし、異なる品種群が1つの地方に持ち込まれることで生じる多様性を見誤ることもあり、アッサムー雲南は多様な民族が集積した多様性が二次的中心地を構成したものといえる。

 2つめの栽培起源説は、稲作遺跡の出現時期、出土遺物、ならびに在来種の遺伝学的な解析から提案された。中国野生種のDNA多型からは、長江中流域もしくは下流域において日本型が成立したとする。長江流域における稲作遺跡は一万年前に野生イネを利用したとされる玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡、仙人洞ならびに吊桶環(ちょうとうかん)遺跡を始め、時代をくだると彭頭山(ほうとうさん)遺跡、河姆渡(かぼと)遺跡など列挙にいとまない(図2)。近年下流域においても、1万年前にイネを利用していた上山遺跡が報告された。(中村慎一 2008)。

 7000年前の河姆渡遺跡においては水田跡における大量の稲ワラや野生種と栽培種の混在した炭化種子が遺物として発掘された。その後、栽培イネのみが見出されるまでには長い時間がかかり、数千年における長い年月における選抜が次第に野生種から栽培種に切り替わっていったことがうかがい知れる。また、野生種と栽培種の混在により栽培化が起こった地域であるとの見方ができる。インドにも古い時代の炭化米の出土する遺跡が出始めたが継続的な栽培化を裏付ける証拠がない。

 近年、日本型の原始的なタイプが熱帯日本型であり、それらがインドネシアにおいて多くみられることから、インドネシア起源説を提唱する研究者もいる。しかし、熱帯日本型の原始的なタイプが日本の古い在来種にもみられることから、過去に東アジアにおいて出現した初期のタイプが熱帯日本型であり、ごく初期に波及した原始的なタイプが末端にみられるというのが妥当ではないだろうか。この根拠には、イネの栽培形質として食文化にも深く関わるもち性、難脱粒性、粒形に関わる形質を支配する遺伝子群が用いられた。起源地では栽培の中心地として、長い年月に及ぶ選抜がすすむことから、中国では改良型に置き換わったことにより説明可能である。七千年から一万年の栽培期間においては周縁部に原始的なものが偏在し、中心部に多様性が形勢されるであろう。

2.2つのイネ

 栽培イネは1つの生物種に属するものの、温帯地方において栽培されることの多い日本型、熱帯地方に栽培されることの多いインド型が知られている。複数の遺伝形質を調査しても2つの品種群に分かれる傾向がある(Morishima  and Oka 1981)。

 植物の細胞には動物とは異なり、光合成器官として葉緑体が存在する。この細胞小器官に核とならび遺伝子を有する。葉緑体ゲノムと呼ばれる遺伝子群は環状のDNA分子として存在し、イネでは母性遺伝をする。内部の遺伝子配列DNA変異速度は核よりも遅いため、長いスパンの進化を探るために適している。RPL16ならびにRPL14の間の配列間の領域は千葉大学の中村郁郎氏により、プラスチドサブタイプ-認識配列 (PS-ID)配列として提唱され、イネの種内変異を解析するために用いられてきた。インド型のPS-ID配列は異なる母親由来の葉緑体を持つことを示す。一方、核の塩基配列のうち栽培化に必要な遺伝情報は日本型と同一であり、中国の野生種とも類似している。これはどのようなことを意味しているのだろうか。

 わたしたちのグループは考古学者との情報交換から、中国に起源した栽培イネは、民族により持ち運ばれたこと、少なくとも五千年前には東南アジアに持ち込まれたものと考えている。その後、現地の野生種との交雑により様々な栽培タイプを生み出していったことが遺伝的背景からわかっている。ただし、細胞質提供親(インド型と葉緑体を同じにする系統)がきわめてまれにしか見いだされないために起源地の特定にはさらなる野生イネの探索が必要であるとみている。いまのところ、インド型栽培イネと共通するPS-ID配列を有する野生イネはタイならびにカンボジアに見出すことができる。

 野生種の分布は過去の温暖期の分布域を考慮すると北は長江流域のやや北側である淮河から、南はオーストラリア北部の熱帯雨林地帯とされる。西はインドから東はオセアニアとなろう。最も、これは栽培イネの直接的な野生種であるルフィポゴンの分布域であり、オリザ属を含めると南アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、ならびにユーラシア大陸というきわめて広範囲である。

 これらの野生種についても生態学的、および遺伝的な調査がなされてきた。私たちも海外学術調査隊を組織し、近年はインド、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、フィリピン、ベトナム、インドネシア、オーストラリアとルフィポゴンの分布域を網羅するようにして多様性調査を進めてきた。南限となるオーストラリアのイネは特殊であり、現地のルフィポゴンはオーストラリア固有種ではないかとみている。コアラ、カンガルー、やカモノハシのみならず、イネについても特殊な系統が生息しているようだ。

 このような野生種の調査では、現地の研究者やガイドと寝食をともにして行動することがある。時に毒蜘蛛を食す村を通過し、時にもち米から蒸留したお酒を飲みながらの調査である。これらの野生種の遺伝情報は、イネの起源を明らかにするため、栽培種の改良のための未利用の遺伝資源の維持のために役立てられる。

3.日本にいつイネがきたか

 日本はコメを主食としているものの、栽培イネを導入したのは比較的近年である。最新のAMS法(加速器質量分析法)による炭素14年代測定法により、少量の試料による正確な年代測定が可能になった。生存時に取り込んだ放射性炭素(14C)の崩壊年度から、遺物として掘り出された炭化物の年代測定が行われた。その結果、弥生時代の開始がいままだ考えていた紀元前300年前後ではなく、紀元前九百〜七百五十年頃というおよそ五百年程度さかのぼるとされた(藤尾ら2006)。 本州最北端である青森まで水田稲作が到達したのはいつごろだろうか。紀元前四世紀中頃から紀元前二世紀初めであろうというのが前述のAMS法による測定結果である(小林謙一 2009)。

 九州北部に導入された水田稲作が水の豊富な日本海側を通り、およそ五百年かけて本州北端まで水田稲作がきたということは妥当な”早さ”だろう。特に日本が南北に長い島国であるため、感光性を持つイネが夏場に長日である東北に北上するのには、遺伝的組換えや突然変異などによる早生化を必要とするためにこれくらいの年月は必要であろう。

4.熱帯のイネ

 イネはよく熱帯原産であるといわれる。たしかに東南アジアでは稲作が盛んである。熱帯島嶼(インドネシア、フィリッピンなどの多島地帯)原産であるという研究者もいる(Konishi ら2008)。考古学者はどのようにみているのだろうか。およそ一万年を越えるとされる長江中流域、江西省吊桶環遺跡ならびに仙人洞遺跡、湖南省の玉蟾岩遺跡では洞窟で暮らしていた人々が野生イネを利用していたとみられている(中村2008)。水田がでてくるのはその後であり、長江下流域の浙江省河姆渡遺跡では大量の稲ワラを伴う遺物がみられ、栽培イネならびに野生イネのものとみられる炭化種子がみられた(佐藤1996)。イネの籾は自然に穂から脱粒したか,それとも人為的行為で収穫されたかにより,栽培イネと野生イネの違いを見分けられる.炭化した籾の脱離層をみることによりその特徴を明らかにし,両者が混在して利用されていたことがわかった.

 籾を収穫するという栽培行為が数千年の連続することにより、自然に脱粒する野生イネから突然変異を生じたイネが選抜された。当時には長江流域にも象がおり、野生イネの特徴を有するイネは長江よりも北の地域まで拡がっていた。そのような古気候からいうならば野生イネの生息地域は熱帯であり、栽培イネはそのような環境において選抜されたことになる。現在の野生イネは長江以南に分布しており、南限はオーストラリア大陸北部の熱帯雨林地帯とされる。このような熱帯を好むイネがどうのようにして日本に渡ってきたのだろう。

 中国でイネが栽培され始めたころ、日本は縄文時代であった。食糧資源が豊富であり、いまの青森市で見出された縄文遺跡である三内丸山遺跡は魚介類、動物、木の実など豊富な食料資源を背景に栄えていた都市であった。遺物として発掘されたクリのDNA多様性が失われていたことから、クリの管理栽培が指摘された。何らかの理由により三内丸山遺跡から人びとは離れ、散在する小集団に分かれて暮らしはじめた。それからおよそ一〇〇〇年後になってからようやく水田稲作がかの地にたどり着いた.

5.弥生のイネ西東

 弥生時代以前にはイネはなかったのだろうか?近年の縄文文化観は昔のそれとかなり変わってきた.弥生時代以前にも焼き畑を主体とする農耕があり、それが水田稲作を受容する大きな基盤となっていたと考えられる(佐々木 2007)。イネ自体としては焼き畑に陸稲が導入されていたことを指摘する研究者もいる。今後の遺跡調査から新証拠がでてくることであろう。

 弥生時代以降は遺物が豊富であり、炭化米やプラントオパールとして得られた“状況証拠”から弥生時代のイネを知ることができる。炭化米の特徴は大きさと形状である。イネの種子の大きさから在来種を分類した研究がある(松尾1952)。それによると長粒形がC型、やや丸みを帯びたものがA型、大粒形がB型とされ、それぞれインド型、温帯日本型、ならびに熱帯日本型にほぼ該当する。日本においては大唐米と呼ばれる品種群がインド型に対応している.大唐米はチャンパ王国(今の南ベトナム)から中国に導入された早生の赤米であり,細長い籾を示す.このように種子の大きさはおおよその目安としては役立つ指標である。炭化米に当てはめてみると,大型の種子を示す熱帯日本型と同じような大型の種子が混じっていることがある(図4)。ただ、アジアの品種変異からは完全には対応しないことも指摘されている(佐藤 1991)。その他の指標ではどうであろうか。

 プラントオパールではその特殊な形態から、上記3品種群を分ける方法が提案されている(宇田津 2003,2006)。植物体から得られるプラントオパールは水田遺跡の土壌中から確実に得ることができるため、情報量も豊富である。プラントオパールはもともと水田検出のために利用されており、青森県田舎館村の垂柳遺跡発掘においても強力なツールとなった。では、プラントオパールから過去の品種構成はどのようにみえてくるのだろう。

 垂柳遺跡より数キロ離れた前川遺跡の調査に関する総合地球環境学研究所の田中ら(2009)の報告では、弥生時代のイネが熱帯日本型に対応することが示された(図5)。千葉大学の中村郁郎氏、総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎氏らは同じ地域の遺跡である高樋(III)遺跡の炭化種子のDNAから熱帯日本型と温帯日本型の双方に特徴的な葉緑体型を識別している(佐藤 2002)。

 この遺跡群がみられる青森県では、縄文時代の遺跡が三千四百二十三箇所(2009年時点)発掘されているのに対して、弥生時代では三百三、古墳時代ではぐっと少なく十六,奈良時代では二百二十三、そして平安時代では千八百十八遺跡が発掘された。古墳時代の遺跡が極端に少なくなり、平安時代に再び遺跡数が増加している。古墳時代における寒冷化が農耕や地域社会形成に多大な影響を与えたのであろうか。この温暖—寒冷化サイクルは多くの科学者が指摘している。日本では東京大学の阪口(1989)により、寒冷を好む指標植物の増減の調査が報告されており、古気象に関するデータが示されている。これによると古墳時代に一時的な寒冷化が存在していることがわかる。その前後における寒冷化は、青森県の三内丸山遺跡の衰退時期にもみられ、温暖期は弥生時代や平安時代にあたる。

 前川遺跡は弥生時代と平安時代の2つの水田層を含み、品種の時代的変遷を調査することができる。田んぼの表面には洪水で押し流されたイネの植物体がみられ、足跡に砂がはいりこみヒトの歩行跡をみることができる(図5)。どうやら平安時代に八甲田山系に水源を持つ河川の洪水が生じて、この水田が放棄されたようだ。この洪水で押し倒された植物はその後のプラントオパール調査からイネであることがわかった(青森県教育委員会 2009)。この個体の残渣からDNA増幅とプラントオパール分析を行ってみた(田中ら 2009)。葉緑体DNA情報からは複数の個体が温帯日本型に特徴的なDNAを示し、プラントオパールは熱帯日本型の特徴を持っていた。これはどういうことだろう。詳細に遺伝形質を評価するために、前川遺跡周辺の在来種を用いてみた。

この在来種群は一般農家では既に栽培しておらず、田舎館村教育委員会埋蔵文化財センターにて収集され維持されているものだ。同地域の江戸時代の古文書、耕作噺にもこれら品種名の記載がみられることから、古くから栽培され続けられていることがわかる。

 在来種の遺伝的特徴をみると、熱帯日本型の形質を第一節桿伸長性や胚乳アルカリ崩壊性において強く示していた。第一節桿長が伸長することは深く播種したところから発芽するために必要な性質であり、陸稲に多くみられる。胚乳の崩壊性は食味に深く関与しており、でんぷんのうちアミロペクチン鎖の合成に関与し、在来種は改良品種とは異なる難崩壊性を示した。これらの性質のために、在来種は明治以降の近代育種の系譜から外れてしまったのだろう。さらにプラントオパールを調査したところ、これらは熱帯日本型と判定された。籾型は明らかに温帯日本型である。

 日本に持ち込まれたイネが瞬く間に北上したことを総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎氏は、熱帯日本型と温帯日本型が同時に九州に持ち込まれたときに、両者の自然交雑から‘合いの子’が生じたこと、同イネの性質が長日条件においても短期間に花を咲かせられるため北上できたと論じた。このような合いの子であれば、津軽地方の在来種の性質も説明可能であり、二千年以上のイネ変遷の過程におけるプラントオパールの変化も説明できるのではないだろうか。その後、明治以降において丸型の白いコメを好んだ日本人はその他のイネを淘汰していった。津軽地方のイネには、いまはほとんどみられない赤米、香り米などの性質もみることができる。

6.北海道への伝播

津軽地方にイネが渡来してから二千二百年以上もの間、北海道の南部においてさえ稲作を恒常的に行うことはできなかった。津軽海峡は本州と北海道における生態分化を生じさせ、のちにブラキストン線といわれるようになった。北方警備のため内地から海峡を越えた屯田兵もイネを栽培することができなかった。千八百八十年代後半になって、津軽から持ち込まれた‘赤毛’の栽培に適していることが見出された。道央に持ち込まれた‘赤毛’は赤い長い芒を有していたことが特徴であった。札幌近郊で栽培しているところ、芒を消失した‘坊主’が見いだされた。芒は収穫時に袖に入るたびに農家にいやがられたためこの個体は喜んで受け入れられたらしい。このような新品種育成は ‘純系選抜’と農学の世界ではいわれている。これは雑多なものから優良形質をもったものを選抜することを指している。しかし、芒のあったものから2つの遺伝子の機能が喪失した無芒の個体が生じたことは質的に異なる。雑多なものから選ばれたというよりは、遺伝学的には自然突然変異により生じたといえる。

 ‘赤毛’は籾の先端の着色形質である‘ふ先着色’を生じる。‘坊主’ではこの着色形質も失った。‘赤毛’後代では、矮性形質を示す‘大黒’、半矮性形質を示す‘夷’など次々と変異体が生じた。これらはいずれも劣性遺伝子による変異であり、遺伝的に機能喪失したために矮性形質を示すことになった。

 赤毛を栽培していることでいまでもさまざまな変異が生じる。筆者の研究室では北海道大学農学部作物育種学研究室で保存されていた赤毛をもらい受け、一個体に由来する後代を栽培した。その中から、‘大黒’と類似している極矮性系統、半矮性系統、アルビノ、葉緑素異常、花器官形成の異常など多くの変異体を得ることができた(図6,今井ら2008)。ほとんどが栽培時に不利な形質ではあるものの、時には‘坊主’が生じたように栽培上好まれる個体が出現することも事実である。

 このような突然変異能力もイネが広域適応能力を示す一因であろう。このようにして中国起源のイネが北方していった。イネは時に他の個体と交雑することで遺伝的に組換えを生じ、新たな形質を示すだけではなく、みずからゲノムを改変することにより多様性の拡大を行うことができるのである。

7.イネの多様性

 交雑と突然変異は遺伝的多様性を一時的に拡大する。しかし、母集団の変異が少なくなれば交雑による遺伝的組み合わせの多様性は減少せざるを得ない。日本に渡来した初期のイネは多様であったものの、2000年の選抜により多様性を減少させてきた。特に明治以降の育種はさらに強い選抜圧を加えてきた。分子マーカーに頼らなくても赤米がみられなくなり、細長い粒形のイネが遺伝資源にのみ存在していることだけでも淘汰の強さがよくわかる。温暖化など今後の気象条件の変動が叫ばれる中、イネの改良には日本の在来種、アジアの品種、さらに野生イネまで含めた多様性をイネの改良に利用することが必要となることであろう。

引用文献

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