イネの“故郷”を訪ねて (科研海外学術:武田班 2003年)

イネの“故郷”を探索するための調査で東南アジアに何回か足を運んだが,今回初めてインド,シッキム州にいくことになった.同行者は総合地球環境研究所に静岡大学から移動したばかりの佐藤洋一郎教授と中国江蘇省農業科学院の湯稜華教授である.以前から,イネの遺伝資源探索として,アジア各地の野生イネや栽培イネの探索に出かけている百戦錬磨の“イネ学者”達である.文部科学省の海外学術調査として,今回選んだ地域がSARSやテロの危険性の比較的少ない地域であるインド東北部となった.

 この地域は明治9年に河口慧海がその当時国境を閉ざしていたチベットに向かう時に通過した場所でもあり,1975年にインドの16番目の州として併合された“雲の上の王国”旧シッキム王国でもある

 16世紀にインドへのアジアへの進出の手がかりを求めていたイギリスから様々な人物がインドを訪れていた.その中には当時西欧ではみたことも聞いたこともない植物の標本を求めて奥地に入り込んでいたプラントハンター達がいた.彼らはそれらイギリスの有力者の後ろ盾の元に植物標本を採取し,イギリスの貴族たちに送ることで探検のための資金を集めていた.その傍ら,もしかするとこちらの方が主であった可能性もあるが,現地の詳細な地図を作製し,軍事情報として本国に送っていたという.

 地理的には熱帯に位置するインドは山岳地帯では標高が高く万年雪をいただくヒマラヤ山脈を抱えている.ちょうど,居間の中に衝立を立てたように突然と雪山が林立している.そのヒマラヤ山系を間近にみることができる場所がシッキム州である.両隣をネパールとブータンに挟まれた谷間に位置し,その関係でチベットまでの交易ルートとして重要な位置を占めていた.近隣の西ベンガル州の首都,ダージリンが車で5時間程度の距離に位置し,ダージリンからネパールまでは2時間の距離である.

イギリスがお茶を重要資源として輸入し,その栽培地として選んだのがアッサムの西北を占めるこの地方である.明け方から日中は霧が谷間から駆け上る標高2000mの斜面に切り開かれた茶園では旧宗主国であるイギリスや世界各地に最高級のお茶を輸出することで有名である.また,夏に40度近くになるインド低地にすむ人々にとっての最高級の避暑地ともなっている.はたまた,世界第3位の標高を誇るカチュンジンガを望む景色は世界中のトレッキングファンを魅了してやまない.

 イネにとってのこの地は,栽培起源地としてアッサム雲南起源説が唱えられた時には“イネの故郷”としても重要な位置を占めていた.現在,イネの栽培起源説には2つのアイデアがあり,アッサム雲南起源説に異を唱える研究者もいる.佐藤洋一郎氏もその一人であり,イネの複数の“故郷”として,中国長江流域をその一つにあげている.

 ではなぜ今,私たちがこの地を訪れたのか.その理由は,現在もチベット・インド間の交易中心地であるシッキム地方が,この山岳地帯に住む多様な人種の交易通過点として,さらに文化,風習,交易商品としての栽培植物のるつぼとなっているからである.では,この地のイネはどこからやってきたのだろう.一方で,この地の栽培イネが示す遺伝的多様性(様々な種類のイネ品種)を背景として,アッサム雲南起源説が成立したのではないだろうか.それの点を再検証するためにモンスーン後のイネの刈り入れ時期に合わせてこの地を訪れることにした.

 栽培イネの起源地でないにしても,多様なイネが存在する地域は遺伝資源の宝庫として重要である.性質の異なるイネが1つの地に集まることで新たな種が成立することもあり,イネの伝播の道筋を考えるためにも重要な情報を与えてくれる.

 11月1日に文化庁の岡田康博氏の三内丸山遺跡の講演会を終えて,翌日にインドに向かって弘前を出立した.翌々日にはシッキムに向かうインドの国内線の機上にあった.シッキム州の最寄りの飛行場であるバグドグラは軍民共用の飛行場であり,警戒が厳重であった.飛行場をひとたび離れると埃舞い立つ街道筋に人と牛が沸き立っていた.この周辺もイネ栽培地であり,川沿いに収穫時期の異なるイネを栽培していた.この地帯からお茶の栽培がなされており,ダージリンの山岳地帯までお茶畑が森林の隙間を埋めている.

バグドグラを昼に出発し,ガントクについたのは5時間後となった.次第に高度をあげていくにつれ,風景は平野から山岳地帯のそれとなる.シッキム州の入り口では警察による入境審査が行われ,湯氏は中国人であるという理由で立ち入りが許されなかった.今回に限りなんらかの軍隊の行動日程が関係しているらしいとガイドから後に聞かされた.

 しかたなく我々は二手に分かれて行動することになった.許可書のおりない湯氏はチベットへの交通の要衝であるカリンポン・ダージリン周辺でのイネ調査を行うことにし,佐藤氏と私がガントク周辺を調査することにした.標高1600mのガントクは最上部に王宮を抱える山岳都市である.レプチャ族,ネパール族,ブータン族が主な民族構成であり,レプチャ族がその大勢を占める.

イネの調査はこの丘陵地帯を中心に車で回ることになった.街の向かい側には棚田が拡がり,同じく山岳地帯であるラオスの焼き畑地帯とはまるで異なる様相を示す.これはヒマラヤ山系の豊富な水資源を抱えるシッキムならではの光景でもあろう.その反動として雨期後には道が崩れ落ちることが頻繁にあるらしい.ここにくる途中でも道半分が崩れているところが何カ所か見受けられた.また,山斜面には真新しい地滑りの跡がみられた.

棚田の最上部,1473m地点の畑では白い花が咲いていた.車を止めてみるとソバの花だった.農夫に聞いてみるとこのソバは粉にしてパンを作るのに利用するとのことだった.この同じ畑の上段には四国ビエが育てられており,イネはみられなかった.この四国ビエ,名前は日本由来と混同しがちだが,インド,アフリカのサバンナ地帯の起源である.この雑穀は現地ではTongbaという酒を造るのに用いられる.子実を木のコップなどにいれお湯を注いで実を破裂させる.そこに市場で売っている酵母をいれて1週間するとできあがるという仕組みだ.一種のどぶろくである.これを蒸留するとLaxyというお酒になる.しかし,公に売ることはできず,自家消費の低所得階層のお酒らしい.

ダッタンソバを棚田で栽培している.丘陵地帯であるシッキムではこのような棚が多い

近くの老人にイネはないのかと尋ね,すぐ下の棚田をみることにした.ここでは牛を引かせて脱穀しており,その合間,合間にお酒を飲んでいた.その牛の近くには孟宗竹のようなこの地方独特の竹の柱がたっており,その上には飾りがされていた.やはり,この地方在来の花,ゴールドマリーである.収穫を祈ってから脱穀作業をするのが習わしらしい.そこかしこで刈り入れを終えたところでは稲穂を山住にして干しているが,必ず,その山の中心には竹がおいてあり,飾りがされている.ここで天日干しをし,稲わらの山を切り崩しながら脱穀をしている.

 

道を教えてくれた現地の方

このイネの籾をよくみてみると複数の品種を混ぜ合わせた状態のものに1つの名前を与えていることに気づく.わざとそうしているというよりも,そのような種子管理が当然として行われているのだろう.

いくつかの棚田を見て回り,全体的には低地のイネとは異なるという印象を得た.あとは遺伝的変異を実験的に調査することで隣国であるネパールやブータンとの比較を行うことでさらなる情報が得られるであろう.

丘から見える棚田

 ガントクから西ベンガル州の街,カリンポンに移動して湯さんと合流することにした.ホテルロビーではアルプス初登頂を成し遂げたとされる2人のうち,シェルパ族のテンジン氏の息子,ジャムリン氏を見かけた.ジャムリン氏は現在,トレッキングツアーの会社をダージリンに持っている.我々はそのダージリンに2日後に立ち寄ることになっている.

 カリンポンへは一度,高度を下げて,再度峠道を上ることになる.ここはブータンからチベットに向かう要衝である.軍隊が至る所に見受けられる.標高1200mのこの街はレプチャ族はほとんどいない.イネもシッキムとは異なり水が少なくても耐えられる品種を植えているという.棚田の中にはかなりの変異がみられる.また不稔という種子の稔らない個体も含まれている.この原因にはいろいろなことが考えられる.複数の遺伝的に異なるイネが近くの水田で栽培されることで,いつしか交雑を起こしてしまったというのが1つの考えである.こうして2万に及ぶ遺伝子を混ぜ合わされた様々な個体からこの地に適応する個体が残されることになる.また,多様性を維持していることで集団として様々な環境変異に耐えられることにもつながる.

街に戻って市場を訪れる.市場にはその地方独特の文化をみる格好の教室である.ここではガントクでみられなかったスパイス売り場があった.主の前には色とりどりのスパイスが所狭しと置かれている.注文に応じて,各自独自の調合をしてくれるという.5ルピー(日本円で10円程度)で鍋に5回分のガラムマサラを調合してもらった.向かいでは麹を売っている.これがTongbaを作るために必要な材料となる.木を掘り抜いた容器に雑穀と酵母をいれることで発酵させるのだ.酵母の固まりにはシダの葉のようなものが含まれており,小さな固まり1つで1回の調合には十分だという.小さい固まりは5つで1ルピーだった.

カリンポンを後にしてダージリンへ歩を進めた.川を境目にして,シッキム州と西ベンガル州が分かれ,さらにカリンポンとダージリンの地域も川で分かたれている.高度を上げるにつれ,11月というのに上着とセーターを必要とするくらい寒くなってくる.これも冷たい霧が吹き上げてくるからだろうか.時には先を走る車の輪郭もおぼろになってしまうほどの霧は冬の名物というが,今年は異常気象の影響なのかこの時期に霧がかかり始めたようだ.ここへの交通手段には乗り合いバスや,近隣から乗り合いタクシーで200円程度,借り上げでは5000円程度もかかるだろうか.その他に蒸気機関車が牽引する小型の列車がある.世界で2番目の高さで運行する列車であり,機関車としては世界一ではないだろうか.狭い山の街を走るため,人々の暮らしと密接な関係を保っているようだ.商店の軒先を通るため,汽車が通り過ぎればレールの上でバイクの修理を始めるものまでいた.

街は今日からカーニバルが始まるという.スクエアーと呼ばれる広場,さしあたり100m四方もあるかどうかという場所に3000人が集まりというロックショーや様々なプログラムが組まれている.夜になるとちょうど100年前に開園したお茶園で働く人々が松明を持って行進し,その到着をまってからの開演だという.翌日には50年も現役で走っているという30台あまりのLandroverが一同に介してのショウも催されていた.狭いダージリンの路地にこれだけの車が一列になることで交通ストップとなり,ひとときは我々も足止めを食う形で身動きができなくなる事態もあった.

100年前に開園したお茶園,Happy valleyはこの地に中国からの茶樹を植えてからの操業ということで,今や老樹となったお茶は香りが失われてしまったということで新たな茶樹の移植をしている最中という.ここからさらに高度を下げるとバグドグラの手前に川があり,その手前に森林が拡がる丘陵地帯がある.これはアッサム地方からつながるため,野生の象がいるという.ダージリンに比べてアッサムのお茶は味が濃いといわれる.これもお茶の生物学的な種が異なることにも関係しているのだろう.ダージリンには中国からの茶樹が移植され,アッサムにはこの地方独自の茶樹があったともいわれている.

平地になると川の氾濫原に水田が拡がっていた.開花期の異なるイネが雑然と植えられている.その横の水路には里芋が生えており,血を綺麗にするために茎の部分を香辛料と混ぜて食べるという.里芋は東南アジア起源の作物であり,この低地のイネの由来を知るためにはこれら随伴作物の関連も見逃せないところである.この地帯にも軍隊のキャンプ地があり,危うくカメラで撮影をしてしまうところであった.かって,このような地で何気なく撮影をしているときに呼び止められたことを思い出した.ここから東に向かうといまでも反政府勢力が闊歩するアッサム地方であり,我々イネ関係の研究者には羨望の地であるが気軽に足を踏みいられない地帯でもある.

このあたり一帯は山間から流れ出る川の合流する地点でもある.そのため雨期と雪解け水の流れが重なる時期には洪水が起こることが多いのだろう.それを回避するためにも多様なイネ品種が植えられていることで,収穫が全滅する危機を回避しているのではないだろうか.