オージェスペクトル四変化

オージェ電子分光測定で得られるスペクトル(以下「オージェスペクトル」)には,その表示方法がいくつかあります.横軸はいずれも電子のエネルギーなのですが,縦軸が異なります.

1.E・N(E)スペクトル

イマドキのオージェ電子分光装置を普通に使うと,このE・N(E)スペクトルが得られます.N(E)というのはエネルギーに対応した電子数ですが,さらにEにも比例した強度分布が得られます.直感的には不自然かもしれませんが,オージェ電子分光で(通常)用いる検出器は相対分解能が一定であるという事情に起因しています.相対分解能がたとえば0.1%だとすると,100 eVの電子を測るときには 100±0.1 eV のエネルギーを持つ電子が検出器に入ってカウントされますが,1000 eV の電子を測るときには 1000±1.0 eV のエネルギーを持つ電子がカウントされます.カウントされるエネルギー幅が10倍広くなるので,仮に100 eV 周辺と1000 eV 周辺で電子数の分布が同じであったとしても,1000 eV の方が 100 eV よりも 10倍大きい強度を得るのです.

図1:E・N(E)スペクトル

図1は典型的なE・N(E)スペクトルを表示したものです.ここまで述べた事情により,エネルギーEにおおよそ比例するようなバックグラウンドが見てとれます.

ちなみに本記事のスペクトルはいずれも普通の「アルミホイル」に対して,スパッタなどを行わない状態(as-received)で測定したものです.電子ビームの加速電圧は 10 kV,照射電流は 2.0E-8 A に設定しています.Alに起因するピークが 1360 eV に見られる他,Cのピークが 260 eV に,Oのピークが 500 eV に見られます.

2.N(E)スペクトル

つぎに,単純に縦軸を電子のカウント数としたスペクトルもあります(N(E)と表記されることがあります).これは,検出器を絶対分解能が一定であるモードで測定することで得られます.オージェ電子分光法では一般的ではありませんが,特定の目的がある場合に使われることがあるようです.ある特定のピークの周辺を高分解能でスキャンする場合に使われることが多い印象を勝手に持っていましたが,そのような記述を文献類で見かけることはできませんでした.

広い範囲のスペクトルをこのモードで取得すると,低エネルギー(おおよそ50 eV以下)領域の二次電子が非常に強くなる一方で,高エネルギー領域のオージェピークはN・E(N)スペクトルよりはるかに目立たなくなっています.したがって,オージェスペクトルがE・N(E)なのかN(E)なのかはその形状で容易に識別することができます.ちなみに丸善本[1]においては徹底してN(E)スペクトルが使われているように見受けられました.

図2:N(E)スペクトル

典型的なN(E)スペクトルを図2に示しました.前述の理由で低エネルギー領域のシグナルが強くなりすぎたので,測定範囲の下限を 100 eV にしています.図1と比較すると,ピークの位置は変わりませんが,各ピークの強度比やバックグラウンドの形状が大きく異なります.

図3:E・N(E)スペクトルをEで割ったスペクトル

E・N(E)スペクトルとN(E)スペクトルの関係を確認するために,図1で与えたE・N(E)スペクトルの縦軸を横軸のエネルギーEで除算してみました.これが図3になりますが,N(E)スペクトルと同じような形状が得られました.Cのピークのバックグラウンドにずいぶん差が出てしまったなぁ… このことから,E・N(E)スペクトルはまさにN(E)スペクトルにEを乗じたものであることがわかります.

バックグラウンドを除去したピークの面積がオージェ電流に比例するので,定量分析に使うことが理論的には可能です[2].「理論的には」と書いたのは,実際の分析においてはバックグラウンドを決定するのが困難であるという問題があるからです.いわゆる,theoretically possible, practically impossible というヤツです.

3.微分スペクトル

定量分析などの用途では,E・N(E)やN(E)のスペクトルをエネルギーで微分して表示することがあります(微分スペクトルと呼ばれる).というより,学術論文などでは微分スペクトルを見かける機会の方が多いかもしれません.
微分ピークの大きさ(上端から下端の幅)がオージェ電流に比例すると仮定して定量分析に使うことがあります.カウント数スペクトルで定量分析を行う場合に比べて,バックグラウンドの決定という困難な課題を回避しているという明確な長所があります.ただし,原子の化学状態によってピーク形状は変化します.それを考慮せずに組成比を得る方法は,せいぜい半定量分析と呼ぶべきものになります.
一方で,S/N比があまり良くないような気がします(主観).微量元素の検出には微分する前のスペクトルを使った方がいいかもしれません(これも主観).
この「微分する前のスペクトル」を何と呼べばいいのでしょうか…英語では direct spectrum と呼ぶようですが[2],日本語で「直接スペクトル」と呼ぶのを聞いたことはありません.丸善本[1]では「積分型スペクトル」という言葉も使っていますが,あまり私の好みではありません.
イマドキのオージェ電子分光装置では,通常はSavitzky-Golayのアルゴリズムを使って微分スペクトルを取得しています(平滑化の効果もあります).そうなったのはコンピュータシステムが発達した1980年代以降の話で,それ以前の装置では物理的な信号処理を施して微分スペクトルを出力していました.

通常はE・N(E)スペクトルを微分しているのですが(図4),N(E)スペクトルを微分したもの(図5)も世の中にはあって,一目見ただけでは区別がつきにくいので,微分スペクトルを見るときはどちらを微分したものなのか(検出器のモードがどちらなのか)には一応注意を払った方がいいでしょう.

図4:E・N(E)スペクトルについての微分スペクトル

図5:N(E)スペクトルに対する微分スペクトル

参考文献

  1. 日本表面科学会編,オージェ電子分光法(表面分析技術選書):いわゆる丸善本.リンク先はCiNiiにしてあります.
  2. J.Wolstenholme,Auger Electron Spectroscopy:本記事はこの書籍の2.4.5節にインスピレーションを受けたものです.